北海道におけるアオサギの生息状況に関する報告

Status Report of Grey Herons in Hokkaido

明野コロニー

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苫小牧市明野にあったが現在は放棄されている。コロニーがあったのは、国道36号と明野川の交点より北西へ約500mの場所で、当時その辺りは湿原であった。

明野地区で営巣が始められた時期については不明であるが、最も古い記録は1959年で、苫小牧市の紀藤義一氏が現地へ赴き営巣を確認している(カムイミンタラ編集室 1985)。その後、1963年の繁殖期には苫小牧市郷土文化研究会が調査を行い98巣を確認している(紀藤 1978)。なお、このコロニーは1kmの範囲内で3ヶ所に分散しており、このうち2ヶ所の営巣面積は合計10,000m2以上であったという(苫小牧郷土文化研究会 1964a)。営巣木はハンノキとされている(紀藤 1978)が、ハンノキに加えてヤチダモが挙げられている場合もある(苫小牧郷土文化研究会 1964b)。同研究会、および苫小牧自然保護協会では、その後少なくとも1978年まで毎年調査を行っている。それによると、巣数は1963年以降年々減少し、1975年には17巣を確認するのみになっている(紀藤 1978)。結局、このコロニーは1985年を最後に消滅した(大畑 1990)が、1982年には約4.5km北東に植苗コロニーが発見されていることから、明野のアオサギが植苗に移動した可能性は高いと考えられる。

明野コロニーが衰退したのは、湿原の埋め立て(明野地区では1962年に開始)や勇払川の流路切り替えによるアオサギの生息環境の著しい変化が原因だとされている(紀藤 1978)。湿原の埋め立ては苫小牧港建設に伴う掘削土砂を利用したものであったが、これによりコロニーの一部が埋没するなど直接的な影響があったという。また、埋め立ては勇払川の流路切り替えと相まって湿地の水環境を大きく変化させたため、アオサギのエサ場は消失し営巣木であるハンノキは衰弱していったという。このため、1966年と1968年には、苫小牧郷土文化研究会が苫小牧市と苫小牧港開発会社に対してアオサギ生息地保護を求める陳情を行い、この結果、コロニー付近の埋め立ては中止され、コロニーの周辺35.1haの土地が同研究会に無償で貸与されている。さらに、1975年には苫小牧自然保護協会の要請によって新たに7.4haの土地が編入され、アオサギの保護地域は合計42.5haとなっている。なお、この森はのちに「桜蘭の森」と名付けられた場所である。また、同自然保護協会はアオサギ営巣環境の復元を目指し、勇払川と旧勇払川を連絡する水路をつくり、1974年にこれを完成させている。また、翌年には苫小牧市によりこの水路にドジョウが放流され、さらに1976年には岩見沢ドジョウ組合からドジョウの寄贈があるなど、その後数次にわたって10万尾ものドジョウが放流されている。また、夜間の車のライトによる営巣への悪影響が懸念されたことから、道路とコロニーの間に盛り土を施すなどの対策も採られている。

このコロニーは、もともと緑が丘にあったコロニーが美園地区の青沼周辺に移動し、さらにそこから明野地区に移動してできたものと考えられている(石城謙吉・嶋田忠 1983)。緑が丘は明野から約2km西南西にあり、美園地区はその間に位置している。これらのコロニーも開発によって順次放棄されていったようである。緑が丘と美園地区の営巣場所については正確な位置の情報がない。ただし、紀藤氏によれば、「アオサギがもといた所は、今の高岡森林公園の金太郎沢ふきんから、北大演習林の入り口あたりにかけての丘の先端部分」ということである(苫小牧民報社 1982)。また、この資料には「昔、苫小牧には二千羽にものぼるアオサギが春になると来て」と書かれているが、昔とはいつ頃のことなのか、またその数がどの程度の精度をもつものなのかは分からない。

参考文献
石城謙吉・嶋田忠 1983 ウトナイの鳥 平凡社 117 pp.
大畑孝二 1990 ウトナイ湖の鳥類保護に関する提言 Strix 9: 191-199
カムイミンタラ編集室 1985 苫小牧・アオサギの森 カムイミンタラ 5月号 6-13
紀藤義一 1978 明野アオサギコロニー調査報告書 苫小牧自然保護協会 1-33
苫小牧郷土文化研究会 1964a 青鷺営巣地第三次調査報告書
苫小牧郷土文化研究会 1964b 青鷺営巣地調査報告
苫小牧民報社 1982 アオサギ物語 教育委員会

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